Senobi

私立の中高一貫校で国語を教えています。国際バカロレア、子どものための哲学、ワークショップ型の授業づくりに関心があります。

【読書】『教養の書』高校生に読んでほしい!

 今日紹介するのは、戸田山和久『教養の書』(筑摩書房)です。

教養の書

教養の書

 

 

同じ著者の『論文の教室』は、論文作成の意義や方法についてユーモアを交えてかみ砕いて説明してくれているので、よく生徒に紹介したり、授業で使ったりしていました。

 

この『教養の書』は、中高生(や大学生)を対象に、「教養」とは何か、なぜ教養を身に着ける必要があるのか、などを説明しようという本です。

そう書くとずいぶん堅苦しくなりますが、本文はまったくそんなことはありません。

くだけた文体と、豊富な具体例(脱線?)で、すいすい読み進めることができます。

 

で、肝心の中身はといえば、これがまた自分が授業で高校生に伝えたいなと思っていることばかりが書いてあるんですね。

なぜ教養を身に着ける必要があるのか、という問い以外にも、

大学で学ぶ意味とは何か、

書き言葉が思考にとっていかに大切か、

読書の意味は何か、

なぜ批判的思考が大切なのか、

など、

学校でいつも言っていることです。

読みながら、そうそう、その通り、とうなずくこと頻りでした。

 

例えば「作品を読む」ということについて、

筆者は映画『ダイハード3』を例に挙げながら、知識があることで作品をより深く理解したり、楽しんだりできると説明します。

それは、ストーリーに感動したり、ハラハラしたりするのとは違う楽しみ(こちらは12歳向けだという)。

作り手は密かに、もう一つの、45歳向けのレベルを仕掛けている。それは、発見する喜び、解釈する喜びからなる。その喜びを十分に味わうためには、その作品の外にあるものをたくさん知っていなくてはならない。

文学作品の読解や、分析批評で生徒に要求しているのもまさにこれですよね。

 

また、知識を身に着けるにしても、単語や年号を丸暗記していくだけでなく(クイズ的知識)、それがどういう意味をもつのか、なぜ重要なのかもセットで理解されている必要があるといいます。

教養のためには、知識が全体として構造化されていなければいけない。まず、カテゴリーに分類され、それぞれに重要度が割り振られている必要がある。(略)

 その上で、カテゴリーと重要度を飛び越えて知識と知識が結びつき、ネットワークになっていること(関係性)が必要だ。ここでは「そういえば」がキーワードになる。

 「構成主義」という言葉こそ使っていませんが、まさにそういうことだと思います。

国際バカロレア(IB)のワークショップに参加すると、最初によくこういう話が出てきました。

これまでの学校は、えてして「クイズ的」な試験が多く、生徒もそれに向けて丸暗記中心の学習を行います。

そういう勉強には、知識の重要度に対する判断がありません。

また、そういう知識って、使わないとどんどん忘れていくんですよね。

わが身を振り返ってみても、学生時代はそういう勉強しかしてこなかったなぁ…と情けなくなります。

こういう、知識をひもづけていくような学び方ができれば、その子は伸びるだろうなと期待できますね。

(こっちは、生徒がそういう学びができるように、カリキュラムや単元を工夫せねば!)

 

そうそう、どこでこの本を知ったかというと、

ある生徒(高校1年生)が「先生、この前読んだこの本面白かったですよ。これを読んで大学で勉強したくなりました」と言って紹介してくれたからなんです。

この本を自分で見つけて、読んで面白がって、さらに先生に紹介するって…もうその生徒には教えることはないなと(笑)

 

「概念」を使った読書感想文の指導法

先日は、国際バカロレア(IB)の課題で分析批評を行っている、という話でした。

具体的に、どう段階的な指導をしていくのか紹介していきます。

IB校でなくても、いろいろと活用できるところがあると思います。

 

私の学校は中高一貫校です。

IBのプログラムとしては、中学1年生~高校1年生までの4年間がMYP(中等教育プログラム)、高校2、3年生がDP(ディプロマプログラム)と呼ばれます。

 

まずは本文の読解を行う

とくに中学生の初めのうちは、正確な本文読解ができていません。

また、語彙を理解していないこともあります。

基本的には、教科書に掲載されている作品を使いながら(一条校なので教科書も使っています)、正確に本文の内容がつかめているかどうか確認します。

この辺りは、多くの学校と何ら変わりません。

 

概念キーワードを渡す

中学生にいきなり分析批評をやろう、といってもぴんときません。

そのため、まずは「概念キーワード」を渡すようにしています。

といっても難しいものではなく、「登場人物」「テーマ」「設定」「文体」など、分析をする上での「観点」のようなものです。

これらを生徒に示しながら、作品のストーリーだけでなく、細部に注目するよう促します。

生徒は各自で取り組みたい「観点」を決め、それを念頭において作品を読みなおし、問いを立てたり、特徴を指摘していきます。

こうすることで、授業中に同じ作品を扱っていても、まったく異なる作文が提出されるようになります。

オツベルと象」のテーマは何か、「オツベルと象」にはどのような人物が登場するか、「オツベルと象」から読み取れる宮沢賢治の文体の特徴について、という具合です。

 

同じような課題を作品を変えて繰り返す

分析批評は、いきなりできるわけではありません。

そのため、同じような取り組みを何度も行います。もちろん、扱う作品を変えながら。

学年ごとの教科書教材を使うこともありますし、中学1年生の時には宮沢賢治芥川龍之介、中学2年生では太宰治、など取り上げる作家を変えていくこともあります。

また、目安となる作文の字数も徐々に増やしていきます。

始めは原稿用紙1、2枚から。

少しずつ増やしていって、高校1年生のころには5枚程度、構成のある論理的な文章を書けるようになろう、というのが今の私の学校の目標です。

 

課題を少しずつ複雑にしていく

最初のうちは、なるべく問いや作品を限定し、多くの生徒が取り組みやすくなるよう配慮します。

例えば、

「なぜ「ぼく」はちょうをつぶしたのか」

「「ぼく」と「エーミール」の関係はどう変化したのか」(テクスト『少年の日の思い出』)

などです。

次に、問いの抽象度を上げて書かせるようにします。

「登場人物の関係性はどのように変化したか、自分が選んだ作品をもとに論じなさい」

というような課題の出し方です。

学年が上がると、抽象的な問いについて、複数の作品をもとにして書く課題に取り組みます。

「登場人物に読者が共感できるようにするため、作者はどのような工夫をしているか、2つの作品を例に挙げて論じなさい」

といった具合です。

このように、少しずつ問いの抽象度を上げたり、批評する作品の幅を増やすことで、生徒の思考やライティングスキルを鍛えようとしています。

また、その都度書き方を教え、フィードバックを繰り返すことで、生徒もだんだんと書けるようになってきます。

ちなみに、DP(高校2年生以降)のカリキュラム、作品も文庫本一冊読むようになります。

先に挙げた課題も、複数の作品を丸ごと比較しながら(例えば『こころ』と『砂の女』など)論じていくことになります。

 

読書感想文にも応用可能

ということで、このような方法は読書感想文にも十分応用可能です。

読書感想文の課題に取り組む前に、分析の観点を学習し(登場人物、テーマ、作者の言葉の使い方、など)、どの観点で書くのかを決めておくだけでも焦点の絞られた文章になるでしょう。

何を書けばいいかわからない、という不満はずいぶん減るはずです。

抽象度の高い問いをいくつか用意していおいて、自分が選んだ作品について、その問いの中から一つ選んで解答する、というやり方も生徒の知的好奇心を刺激します。

抽象的な問いとは例えば、

「この作品のテーマは何か、またそれはどこから読み取れるか」

「作者はどのような表現の工夫をしているか」

「小説の構成はどのような効果を上げているか」

というような問いです。

それらを、自分が読んだ本をもとに考察するのです。

読書が苦ではない生徒に向けては、複数の作品を比較して論じる、という方法を教えると興味を持って取り組んでくれるかもしれません。

二つを比較して考えることで、それぞれの作品についてより深く理解することにもつながります。

 

ずっと同じような読書感想文では生徒は飽きてしまいます。

こんな方法もあるよ、こんな書き方もできるよ、といろいろな手を紹介しながら、

少しでも本を読んで考えることの面白さを体感してほしいなと思います。

 

読書感想文とIBの分析批評を比較してみた

Twitterで読書感想文のことが話題になっていますね。

それに関連させて、普段私が受け持っている国際バカロレア(IB)のコースでは、どのような作文指導を行っているか、紹介したいと思います。

(※あくまで私の学校の一例です。すべてのIB校が同じように取り組んでいるわけではありません。)

 

読書感想文ではなく、分析批評を書く

 

そもそも、読書感想文を課題にすることがありません。

近い課題としては、分析批評があります。

文学作品を読み、内容や書かれ方について分析し、その分析した内容をもとに批評を書く、というものです。

「小論文」や「コメンタリー」と呼ばれる課題です。

 読む作品については、授業内で扱った1つの作品について全員が書くときもありますし、生徒が各自で好きな作品を選んで書くときもあります。

作品のジャンルは小説が多いですが、詩や古典作品も使います。

また、テーマや問いについても、教師が提示したり、生徒が各自で設定したりと、学年や単元によって異なります。

 

評価の対象になる

読書感想文の場合、なぜ書く必要があるのか、という点でしばしば議論になります。

一つの目標として、コンテストに応募する、というものがあります(校内コンクールも同様)。

夏休みの宿題として読書感想文があり、夏休み明けにコンテストに応募する、というパターンが多いのではないでしょうか。

また、それを見越して、多くのコンテストが秋ごろの締め切りになっているようです。

コンテストで表彰されて成功体験になる、という一部の生徒はいるでしょうが、多くの生徒にとっては、自分の作文がどう評価されたのか、どう読まれたのかを知る機会はほとんどありません。

また、それがどう成績に反映されているのかもあいまいです。

 

一方、IBの分析批評の場合は、コンテストに出すことはしませんが、校内で評価し、年間の成績に反映します。

というのも、IBの定める評価基準の中に「分析」という項目があり、文学作品に代表されるテクスト分析を行う課題をやることが必須なのです。

担当教員は、提出された作文をルーブリックをもとに評価し、一人一人にコメントをつけるなどしてフィードバックします。

そうすることで、自分の分析批評がどの程度のレベルであったのかを、生徒は客観的に知ることになります。

 

書き方の指導をする

読書感想文の場合、あまり書き方の指導に時間が割かれません。

1学期の授業時間にそんな余裕がない、ということもあるでしょうし、そもそも読書感想文が何を目的とした文章なのかはっきりとしない、ということも原因でしょう(目的がはっきりしないので、書き方も教えられない)。

その結果、夏休み直前に、課題図書一覧やオススメ読書リストが配られ、ろくに書き方も習わないまま、いきなり原稿用紙〇枚、という量を書かされることになります。

真面目な生徒はそれでもやってくるでしょうが、多くの生徒はこれではやる気があがりませんよね。

(すみません、ちょっと悪く書きすぎています。かつての自分がまさにこのような丸投げ型の課題を出していたもので、反省しつつ書いています…。)

 

少し話はそれますが、なぜこのようなことになるのか。

読書感想文の目的が「夏休みの間に本を読む」ということにあって、ライティングのスキルを伸ばすことを目的にしていないからではないでしょうか。

とにかく「本を読む」ということが目的化していて、「どのように読むのか」という読む手法までの指導ができていない、ましては「どのように書くのか」というところまで手が届かない…

その結果としての「丸投げ」であるように思えます。

読書感想文は「読んだことの証拠」としてのみ扱われる、なんてこともありそうです。

 

文学批評の場合、いきなり書け、と言っても不可能です。

文学作品の分析の仕方、問いの立て方、意見の述べ方、論理的な文章の書き方、根拠の挙げ方など、様々なことを生徒に教えていく必要があります。

「どのように読むのか」「どのように書くのか」といったところを授業内で十分に指導するわけです。

もちろんその前提として、なぜ文学作品を読むのか、なぜ批評を書く必要があるのか、ということも機会があるごとに説明していきます。

成績に含める課題を出す前に「形成的評価」として一度書いてみて、フィードバックする、ということもやります。

このような準備段階を経て、ようやく「さぁ自分で書いてみよう」という課題が出せるのです。

 

 

これだけいろいろ教師はやりますが、それでも全員がすんなりと書けるようにはなりません。

また別の単元で、次の学年で、などと作品やテーマを変えつつ、同じような課題に何度も取り組みます。

その繰り返しがあるからこそ、生徒の作文のスキルも少しずつ上達し、読み方と書き方がともに身についてくるのだろうと思います。

 

 

今回は、読書感想文とIBの分析批評を比較してみました。

こういった観点で取り組めば、読書感想文の課題ももっと面白くなりそうです。

次回はより具体的に、どういう指導をしていくのかまとめてみたいと思います。

 

 

育児中のコミュニケーション、自己発信

ブログを再び書き始めるようになって、3ヶ月になります。

とりとめのない内容の記事をいつも読んでくださってありがとうございます。
 
育児のためとはいえ、仕事をしないでずっと家にいると、単調な生活リズムになってしまいます。
時間の経つのが本当に早い。
その時考えていたことを、少しでも書き留めておきたいなと思います。
 
本を読んだりしていると、育児ノイローゼ産後うつ、といった言葉が出てきます。
どういう精神状態か、ぴんときていなかったのですが、自分で子育てをしてみて、よく分かりました。
 
赤ちゃんは文句なしかわいいのですが、言葉を話せません。
そのため、コミュニケーションをするにしても一方的にひたすら話しかける状態になります。
これが結構キツイんですね。
ほとんどリアクションのない相手にずっと話し続けるというのは。
(私の母は育児中、父が帰ってくると「やっと人間と話せる」とほっとしたそうです。)
 
また、育児の本などには、この時期に話しかけるのは脳の発達にいいから、どんどん話しかけてください、なんて書いてあるものだから、それもプレッシャーになったりします。
 
夫婦二人でやっていても、このように感じてしまうわけですから、
ワンオペ育児の場合、話し相手がいないまま、ずっと家で赤ちゃんの相手をしているのは相当大変だろうなと想像できます。
 
ブログもそうですが、
誰かに自分の思いを発信することは、考えを整理し、気持ちを落ち着かせる上でも大事ですね。
 

2回目の予防接種

今日は2回目の予防接種に行ってきました。

この時期には、4種類の注射をすることになっています。


先日両親が来た時、予防接種の話になり、最近の数の多さに驚いていました。

病院でいただいたスケジュールを見ながら、

これは昔はなかった、これはやった、などと母が確認していました。

それだけ新生児医療の常識が変わってきたということなのでしょう。

赤ちゃんに何度も注射をするのはかわいそうとついて思ってしまいますが、ありがたいことです。


前回、予防接種後に赤ちゃんの体調が悪くなってしまったこともあり、妻は朝から心配しています。


病院に確認したところ、4種類なので両手両足に注射することになってしまうとのこと。

一度にやってもいいが、赤ちゃんも大変なので、病院に来られる時間があるのなら、2回にわけた方がいい、とのアドバイスをいただきました。

幸い病院は家から近く、時間もあるので、そうすることにしました。


ということで今日は2つ、両腕に注射をしましたが、前回ほど泣くこともなく、

家に帰ってからも機嫌が良いままでした。

熱もないので、今回は大丈夫かな。

ほっとしました。



今週の名文(8)

自立とは、誰の助けも必要としないということではない。どこに行きたいか、何をしたいかを自分で決めること。自分が決定権をもち、そのために助けてもらうことだ。だから、人に何か頼むことを躊躇しないでほしい。健康な人だって、いろんな人と助け合いながら暮らしている。一番だいじなことは、精神的に自立することなんだ。


渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのか』(ちくまプリマー新書)で紹介されていた、エド・ロングさんの言葉。

自立というとすぐに自己責任、という方に流れがちな風潮の中、こういう考え方の方がしっくりくる。

この本ではないが、「自立とは依存先を増やすこと」(熊谷晋一郎)という言葉も大切にしている。



こうした黒人たちの受難の経験をなぜ僕たちは読むのか? たぶんそれらが、すべての〈人間〉につながる普遍性を帯びているからだ。


小野正嗣「普遍的な痛み 文学は宿す」(624朝日新聞文芸時評)より。黒人の話に限らず、文学を読む意味はこの辺りにある。



たいしたことないです

たかがカレーですから


◯60年やっていたキッチン南海が店を閉めるというニュースから。大変だったかと記者に聞かれた南山茂社長の言葉。

自分が生涯かけてやってきたことを、こう言ってのけるのがかっこいい。



It means your future hasn't been written yet. No one's has. Your future is whatever you make it. So make it a good one, both of you.

人間の未来はすべて白紙だということ。未来は自分で作るのだ。君たちもいい未来を作りなさい。


◯「バックトゥーザフューチャー3」からドクのセリフ。改めて通しで観たけれど、いい映画ですね。


オンラインでの研究会をどう運営するか

今日は、私のやっている授業づくり研究会の日でした。

初のオンライン開催です。

 

普段は10人前後の参加者なのですが、今回はオンラインということで、国内外のIB校の先生を中心に、30人近い方に参加していただくことができました。

 

いつもであれば、みんなで中央を向いて座り、有志の実践報告や、テーマを決めてのディスカッションなど、わりとゆるい運営をしています。

 

人数も多いオンライン上でそれをどうやるか。

 

今日は、進行をスムーズにするために、実践報告の内容や、参加者のみなさんで話し合いたいテーマを事前に募集しておきました。

それを共有ドライブにレジュメとして入れておき、各自で見られるようにしておきます。

 

話し合いのルールはどうするか。

とくにルールを決めず、好きに話してもらうのがいいのですが、

大人数ほオンラインで、とくに知らない人同士だと、話に入るタイミングが難しいと感じます。

これだと、一部の人がひたすら話し続け、後の人は聞いているだけ、という展開になりかねません。

 

今日は、発言したい人には手を挙げてもらうなどのアピールをしてもらって、司会(私)が指名していく、という形式をとりました。

もちろん、これでもよく話す人、聞くだけの人に分かれますが、

自分で手を挙げるという動きがあるので、話したいけれど入れないまま話題が進んでいく、ということはなくなります。

(話したいけど手を挙げられない、という人はいるかもしれませんが)

 

このやり方だと、参加者で話がどんどん膨らんで盛り上がる、という展開にはなりませんが、

司会が指名していくことで、話の筋道は分かりやすくなり、また司会の指名の仕方によってはリズムも生まれてくるのかなと思います。

 

他にも、Zoomのブレイクルームを活用するなど、いろいろな工夫があるでしょう。

遠方の先生とも気軽に勉強会ができるというメリットを活かしつつ、

より中身の濃くなるオンライン研究会の形を考えていきたいなと思いました。