卒業生との対話
前任校で中3のときに担任していた生徒たちから、久しぶりに話したくなったので飲みに行きましょうと誘われた。
大学の四年生になった彼らと数年ぶりに会って、久しぶりに近況などを話し合った。
中高時代のことや、就活のときの話を聞いていたが、
興味深かったのは、今の環境を疑う、ということをどのタイミングで行うのが良いのだろうか、という話題だった。
前任校は、中高一貫の進学校で、高2・高3になると特別講習などで教師も生徒も受験モードに入る。
学校全体が同じ目的に沿って動くので、生徒もみんなその気になり、成績を伸ばしたり、受験で結果を出すようになる。
そこで、受験なんて意味ないよ、とか、のんでこんな勉強をしてるんだろう、とか考えだすと、流れに乗れなくなり、苦しくなってしまう。そういった疑問は抱かない方が「結果」が付いてくるのだ。
ある教え子は、疑うことなく、受験勉強の波に乗ることができ、大学入試でも結果を出すことができた。大学に入って、自分の生き方を振り返って疑問を持ち、悩むようにはなったが、高3のときはあれで良かったのではないか、と言っていた。
また別の子は、その受験だけを価値とするムードに乗り切れず、悩んでしまった(もともとの器用さから乗り越えはできた)。
今となっては、受験が全てではないということは分かる。ただ、高3でそこに疑問を持ちすぎていたら、今の大学に合格できてはいなかっただろう。気づかない方が良かったのではないか、と話してくれた。
勤務校では、中学生相手に哲学対話の授業を行っている。
それこそ、学校での価値観を批判的に捉え直す活動である。
なぜ友達はいなければいけないのか。
なぜ勉強しなければならないのか。
頭が良いってどういうことか。
こうした問いを、教師は中学生に投げかけていく。
もちろん、自分一人で悩んでいて、哲学対話の授業を通して自分を肯定できた、というケースもある。
しかしその一方で、気づかずにいれば悩まずに済んだのに、教師からの積極的な働きかけによって、それに気づかせてしまうケースもあるのだ。
教師にその権限はあるのだろうか。
勤務校の場合は、中学生の段階で疑うことを推奨しておいて、高2、高3で受験的な価値観に生徒を乗せていこうとする。
これは矛盾してはいないだろうか。
ずいぶんもやもやしてしまったが、卒業生と話していて、そんなことを考えた。