エッセイを読む授業
高校1年生の単元でエッセイを扱うことにしました。
生徒たちにとっては馴染みが薄い分野。エッセイとはどんな文章か分からない生徒もたくさんいました。…と言っても定義は難しいのですが。
そこで、図書室に行って、書棚の文庫本の中から、エッセイだと思われるものを探して読んでみようという時間をとりました。
「先生、これはエッセイですか?」「これは小説だね」というようなやりとりをくり返します。
何人かの生徒たちから話が出たのですが、エッセイは面白くない、とのことです。
物語であれば、その世界の中に入ることができるけれど、エッセイは他人の話を聞かされているようで、あまり頭に入ってこないそうです。
たしかに、人の話を聞くのが苦手な生徒たち。わかる気がします。
とりあえず興味をもってもらわないことには始まらないので、作者の顔が浮かぶものをと思い、
星野源『そして生活はつづく』(文春文庫、2013年)より「子育てはつづく」
若林正恭『社会人大学人見知り学部卒業見込』(メディアファクトリー、2013年)より「ネガティブモンスター」
の2編を紹介。
「星野源だ!」とか、「面白い!」と、読書嫌いな生徒にもハマったようです。
文章を好きになるポイントとして、
著者、作家が好き
書かれているエピソードや考え方が好き
言葉の使い方や文体が好き
などがあることを解説しました。
最後の観点はあまり考えたことがないようでしたが、せっかく2つの文章を読んだので、星野源の文体と若林正恭の文体どっちが好き? といった内容で対話ができました。
今日は、福岡伸一『芸術の科学のあいだに』(木楽舎、2015年)のまえがきにあった文章を紹介しました。
日本の教育ではかなり早い段階から文系と理系を分けるけれど、それでいろいろと失うものもあるのではないか、という内容の文章です。
これは、ちょうど高校1年生が文理選択の時期で、秋の三者面談に向けて決めなければいけないところに来ているため、それに合わせたものです。
学校では、担任の先生などから、しっかり文理を選択するように、それにはちゃんとした理由(行きたい大学や将来の仕事など)があるように、というように強く言われます。
たしかに、強く言わないと何も考えない生徒もいますし、大学進学を考えれば文理選択は効率的な仕組みです。
しかし、やりたいことがたくさんあって、一方に決められなくて悩んでしまったり、周りと違って決められない自分を責めたりする生徒も一定数います。
先日も、ある保護者から娘が文理選択で思いつめている、という相談を受けました。
そういうわけで、あえて学校のメッセージとは真逆の内容を文章を紹介し、
いろんな考え方がある、学校で決めた仕組みやペースに乗れないからといって自信を無くす必要はない、苦しい時に本を読むと少し楽になるかもしれない、
といったことをお話しました。
こういった読書をすることで、視野を広げたり、批判的に考える経験をしてほしいと思う一方で(今悩んでいる生徒にとっては、少しは効果があると思いますが)、
上手く学校の仕組みにのっかっている生徒を困惑させたり、動きを鈍らせたりすることにもつながりかねず、
私自身どういうふうに生徒と向き合えばよいのか、悩みが深まっています。