Senobi

私立の中高一貫校で国語を教えています。国際バカロレア、子どものための哲学、ワークショップ型の授業づくりに関心があります。

私たちはずいぶん乱暴なことをしている

今日は哲学対話仲間と、今年最後の勉強会&忘年会でした。

そこで出た話の中で、いまの自分の問題意識にぴったりのものがあったので、書き留めておきたいと思います。

 

それがタイトルにも書いた、私たちはずいぶん乱暴なことをしているのではないか、という問いかけです。

 

これは学校で哲学対話を行う際の話ですが、

つまらない(惰性的、形式的な)対話にしないためにどうすれば良いのか、

生徒主体の対話を行うために生徒は何をするのが良いか、

どこまで生徒に任せるのか、

授業中の不規則発言をどこまで許容するか、

このように考え、注意しなければならないことが山ほどあります。

 

こういうもっと細かいことまで考えて実践していかないと、哲学嫌いを増やしてしまうことにつながりかねません。

そうなると本末転倒です。

 

また、先生がずっと対話の手綱を握りしめ、対話を管理しようとするのも問題です。

対話が上手くいく、いかないの責任がすべてその先生のものになってしまいます。

1人の先生がずっと哲学対話を行っていくのも、リスクが大きいと言えます。

 

もっと授業のハードルを下げて、いろんな先生が楽しく哲学対話をしていく方が良いのではないか、という意見です。

 

いまIBのカリキュラムで教えていて、探究型の授業に取り組んでいますが、わたしの危機意識も全く同じです。

 

これは以前にも書きましたが、1日に6時間も7時間も授業をやっていて、そのうち何時間を探究型、アクティブ・ラーニングにするのでしょうか。

1、2時間真剣に頭を使ったら、大人でもくたくたになります。

答えのない、難しい問題にいったいどれだけの子どもが1日ずっと取り組んでいられるでしょうか。

こういったマネジメントはあまり考慮されません。生徒の自己管理スキルに集約されていきます。

各教科の先生が、生徒の負担を顧みず好きにやりたい探究授業をやって、好きに課題を出す感じ。これをどう抑制すればよいのでしょう。

 

探究やアクティブ・ラーニングのムーブメントは盛り上がってきても、このような、細やかな配慮まで行き届いていないのが現状です。

 

探究型の授業は、コツをつかめば発想できるようになります。

でも、意識しなければそれはすぐに、生徒にとって難度の高い課題になってしまいます。

なぜなら、教師にとっては、難しい課題を作ることよりも、目の前の生徒にとって適度な易しさの課題を作る方が難しいからです。

 

細かいことまで考えて、生徒にとって「意味のある易しい課題」を考えていく必要があります。