Senobi

私立の中高一貫校で国語を教えています。国際バカロレア、子どものための哲学、ワークショップ型の授業づくりに関心があります。

これからの「国語科」の話をしよう!の感想

連休中は、国語科教員として楽しみにしていたイベントが連続してありました。

 

13日に行われたワークショップ「これからの「国語科」の話をしよう!」がその一つ目。

実際に参加しての感想を書きたいと思います。

 

まず、会場に到着して、参加者の人数に驚かされました。

ツイッターなどの事前告知や、仲間同士で話題になっていたので、注目度が高いのは想像できていましたが、予想以上でした。

早めに到着してので、座席は確保できたのですが、あまり人が多い場所は苦手なため、途中で帰ろうかと思ったくらいです。

 

始まってみると、最初にそんなことを考えてたことを忘れるくらい面白く、参考になる話がたくさん聞けました。

 

とくに阿部公彦先生の論理のお話は新鮮でした。

今まで授業で論理を扱うというと、どうしても味気ない印象でしかなかったのですが、実際のテキストに即してその「効果」を生徒と分析していく、という展開は、ぜひ自分の授業でも取り入れてみたいと思えました。

 

気になったことは、議論が窮屈に感じてしまったことです。

ワークショップ自体のテーマでもあるので仕方ないのかもしれませんが、話題が「国語科」という枠の中でばかり語られており、それは国語なのかどうか、という側面ばかりが強調されていたように思えました。

 

いま私はIBのカリキュラムで教えているので、どうしてもIBのアプローチと比較してしまいます。

 

例えばIBで「論理」は、どんな教科でも扱うことのできるキーワード(重要概念と呼ばれます)になっています。

そして、「国語(IBの教科名では「言語と文学」)としての論理」「数学としての論理」「理科としての論理」という具合に、それぞれの教科の学習活動を通して、教科ごとに異なるアプローチで「論理」を扱っていきます。

当然、国語としての論理と、数学としての論理、理科としての論理は異なることが想定されています。

生徒の側からすると、複数の教科で異なる「論理」と出会うことで、「論理」を多角的に捉えることができるようになるのです。

 

ですから、IBの場合は「論理を国語で教えるべきか」といった問いが出てきません。

重要であるとされる概念や考え方は、国語に限らず複数の教科で、また異なる学年で何度も繰り返し扱われるからです。

 

この知識は社会科で、この考え方は数学で、というふうに、教科ごとに住み分けをして重複しないようにする日本のカリキュラムと大きく異なるところだろうと思います。

(IBではなるべく複数の教科で重なるようなテーマが良いとされています。)

 

私が議論を窮屈に感じたのも、この辺りが原因なのではないかと思っています。

はじめに「国語科」という枠があり、その枠の中で何をすべきか、また何をすべきでないか、といった話し合いはありました。

 

しかし、もっと根本的なこととして、これからの学校で、これからの中高生にどのようなことを身につけさせたいのか、卒業する時にどうなっていてほしいのか、そしてそのために「国語科」ではどういう貢献ができるのか、という論点があいまいなまま、話が進められているように感じたのです。

 

もちろん指導要領では目標が示されていて、そこには汎用性の高い「良い」言葉が並んでいます。しかし、実際にそれぞれの学校で教育目標として用いるためには、学校の状況や目の前の生徒に即して言い直したり、具体化していく必要があるでしょう。

 

国の教育政策として、もっと全員に論理を学ばせるべきだ、と合意がとれるのであれば、では国語科としてどう論理を扱うことができるのか、という議論になっていくでしょう。

(「論理」のところを「文学」に変えても同じです)

こうした、大きな目標についての議論や合意形成をあいまいにしたままで、現代文か古典か、論理か文学か、といった話をする難しさがあります。

論理国語、古典探究といった科目の設定は、この流れに拍車をかけている気がします。

 

古田先生のご発言で、

古典、文学、という分け方をしない、こういう問題について考えよう、こういう力をつけよう、そのためにテキストを選ぶ、

というものがありました。

このお考えに同意します。そして古田先生のおっしゃる「こういう問題」「こういう力」とは、例えばどのようなものか。ぜひ伺ってみたいと思いました。

 

これから中高生とどういう問題について一緒に考えていくか、中高生にどういう力をつけさせたいのか、そして、そのことに国語科としてどう貢献するのか。

このことの大切さを改めて感じたワークショップとなりました。