国際バカロレア「言語と文学」での古典の扱い(4)
前回は、国際バカロレア(IB)スタイルで古典作品を扱うメリットについて書きました。
今日はデメリットについてです。
取り上げる作品が少ない
前回書いたメリットの裏返しですが、1つの作品について深く、詳しくやっていこうとすると、当然年間の中で扱える作品数は少なくなります。
多くの高校のように、あれもこれも、少しずつ読んだことがある、というようにはなりません。
これは歴史の学習でも同じことが言えて、IBでは通史的な授業をあまり行いません。
むしろ、歴史の中の特定の話題にスポットを当てて、それらについて自分で調べたり、複数の出来事について比較したり、というやり方で、歴史を学習するようです。
一つの作品やトピックについて詳しくなる一方で、概観的な知識が少なくなるという面はあると思います。
もちろん、IBは知識は少なくて良いと言っているわけではありません。幅広い知識を身につけることを推奨していますが、学習スタイルやカリキュラムの違いから、このようなことが起こりがちだということです。
文法や単語の知識が少ない
これも前回書きましたが、古典文法や古文単語を身につけて、初見の古文を読解する、という学習スタイルをとりません。
文法や古文単語は、教材となるテクストの分析や解釈に必要なところを中心に扱われます。
そのため、一般的な「古典」を使って大学受験を目指す高校生に比べると、その知識量は少なくなります。
DP(ディプロマプログラム)の最終試験は11月にあるのですが、DP生がセンター試験を受けても、古典で高得点を取るのは難しいと思われます。
(DP最終試験の後、センター古典の学習を一気にやって、得点を取ったという話は聞いたことがありますが、そうとうな努力が必要です)
私の勤務校では、DP生は、大学の一般入試を初めから想定していません。
学び方、授業を通して身に付ける力が大きく異なるからです。
作品の読み方を限定するおそれ
教師は、あるねらいをもって単元を設計し、その単元にふさわしい作品を教材として選択します。
裏を返せば、教師の側にこの作品をこの観点から読んでほしい、という強い意図があります。
それによって、なぜいま古典作品を読む必要があるのか、というメッセージを生徒に届けることができるのですが、
一方で、作品の読み方を限定してしまう可能性もあります。
授業で生徒とある探究をしようとして、その側面を強調するあまり、他の要素を削ぎ落としてしまうのではないか、ということです。
そうなると、結果的に狭い読書経験でとどまってしまうことにもなりかねません。
このことで、IBの単元設計を窮屈だ、一面的すぎると感じる先生もいるように思います。
いいとこ取りをしよう
さて、いろいろと書いてきましたが、
両方の授業スタイルをやってきた身としては、これから両者のいいところを混ぜたカリキュラムを作っていきたいなと思います。
例えば、IBであれば、高校1年の間に、さまざまな古典作品のダイジェスト版のような学習を行い、その後のDPで学習したい作品を生徒に決めさせる、とか。
高校の「古典」の授業であれば、
教師がすべて解説するスタイルを抑え、グループごとに役割を分担したゼミ形式を取り入れたり、
評価のために論述課題を取り入れるなどして、なぜその作品が今読むに値するのかを生徒自身が考えるようなやり方を取り入れたり。
もうすでに、そういうことをやっている学校、先生方は多いと思いますが、
概念的に考えたり、探究の手法を用いることで「古典」の授業ももっと変わっていくのではないかと思います。