Senobi

私立の中高一貫校で国語を教えています。国際バカロレア、子どものための哲学、ワークショップ型の授業づくりに関心があります。

原爆の日、してはいけなかった質問について

この時期になると、以前やってしまった失敗を思い出します。

 

もう何年も前になりますが、勤務校の修学旅行の引率で、広島に行きました。

夜に生徒を集めて、被爆者の方の話を聞く機会がありました。

 

その方は、幼い頃に原爆の被害に遭われたそうですが、当時の状況やその後の生活について詳しく話してくださいました。

私も、その方のお話を胸の詰まる思いで聞いていました。

 

話が終わって、何か質問があればどうぞ、と促されました。

話が重かったためか、生徒からは手が挙がりません。

私は、せっかくの機会なのでその時のことをより詳しく聞きたいと思い、

「(話題に上がったある場面では)どのような気持ちだったのでしょうか」といった質問をしました。

 

これが良くなかったんですね。

 

心情を直接聞いたせいか、また私の質問の仕方が冷静すぎたためか、

その方は「私がこれだけ話したのに、この先生にはまるで伝わっていない」と誤解させてしまったようなのです。

その方を、大変傷つけることになってしまいました。

 

私としては、話に深く感じ入って、より詳しく知らないと思ったからこその質問だったのですが、その意図は伝わりませんでした。

 

質問を尋ねられてはいますが、深く掘り下げて追求するような質問は求められていなかったのです。

 

会が終わってから、夕食時に同僚の先生から「あの質問はないよ」と怒られ、

後で、講演者の方からの抗議もいただいたそうです。

よほど「空気の読めない」質問だったのでしょう。

 

「質問はありますか」と求められたので質問したら、それが相手を傷つけたり、怒らせる結果になった。

このことに私はショックを受けて、その後もけっこう引きずりました。

 

哲学対話などでは、「知的安全性(intellectual safety)」ということを大切にします。

人を貶したり、傷つけたりすることなく、安心して問うたり、話したりできるような空間づくりを心がける、ということです。

 

被爆者の方との対話に、この安全性はあるのか。

もっと知りたい、深く共感したいと思ってした質問だったのですが、質問を拒絶されたことで、逆に絶対に分かり合えないのだという壁を感じてしまいました。

 

被爆者の方は、何とか原爆を知らない世代に伝えようという思いで話されています。

しかし、こちらから問うことがためらわれた時、その非対称性によって、両者の距離はますます広がっていくように感じられたのです。