今週の名文(16)
三十年くらい同じことを同じ調子でしゃべっている人がいるんですが、これがこれで、実に退屈な風格が出てきまして(笑)。そういうふうに、しびれるように退屈なものを見ることに、また中毒してしまう。
大学時代はずいぶん麻雀にはまっていたこともあって、色川武大(阿佐田哲也)をよく読んでいた。これは天野祐吉との雑誌の対談で、寄席について語った言葉。
寄席は、たまらないくらいの退屈さを味わうために行くのだという。その中にわずかに光る面白さを楽しむ。
そういえば、大学の頃には平日の昼間から頻繁に寄席にいっていて、お年寄りばかりのまばらな客席の中で、いつもと同じようなネタをぼーっと聞いていることが多かった。
川柳川柳の「ガーコン」とか入船亭扇橋の「茄子娘」とか、何回聞いたか。
当時から、なんて無駄な時間を過ごしているんだという自覚はあったけれど、今から思うとずいぶん贅沢な時間の過ごし方だったんだなぁと思いますね。
我が身を捨てる自傷癖に近い何かがあり、自我を拡大させて神に近づこうとするような厄介な側面もある。共通するのは、自分を自分でない何かにしたいという欲求なのではないか。
宮内悠介
色川武大の本を読み返したりしていたら、8月26日の朝日新聞に、作家宮内悠介がギャンブルについて語っている記事があった。
ここで語られている「自傷癖に近い何か」っていう感覚はよく分かる。
勝ちたいっていうより、時々負けに行っている、という感覚になることがあって、負けて傷つくことで、自分を充たそうとしていたのかなあと思う。
普通の教師は言わなければならないことを喋る
良い教師はわかりやすいように解説する
優れた教師は自らやってみせる
しかしほんとうに偉大な教師は生徒の心に火をつける
ウィリアム アーサー ウォード
前田康裕『まんがで知る教師の学び2』の中で紹介されていた言葉。
国際バカロレアでも、教師自らが学習者であることが大事だ、とはよく言われますが(3番目)、その段階も難しいのに、果たして生徒の心に火をつけるような存在に近づいているのかどうか。
若さというエネルギーがどんどん失われていく中で、生徒の心に火をつける前に、自分の心に火を灯し続けていかないと。