徒然草で哲学対話
高校一年生古典の授業、「徒然草」第七段を読み、哲学対話をしました。
前時に、原文の音読、助動詞や文法事項の確認を行い、口語訳を配布しています。
そして次の時間は哲学対話をやるよ、と予告しておきました。
はじめに、原文と訳を再度読み、問いを考えます。
生徒からは、
味気なく長生きするのは良いことなのか
痴呆症などでボケて何も分からなくなっても生きている意味はあるのか
そもそも生きる意味は何か
人は何をすれば満足するのか
なぜ人は長生きを望むのか
といった問いが出されました。
みんなで挙手をして、今日のテーマは
長生きする人生と早死にする人生のどちらが良いか
に決まりました。
最初に立場を聞いてみると、ほとんどが長生きする方が良い、という意見でしたが、
何人かは、やりたいことをやってしまって早死にしても良い、という意見を言う生徒もいました。
早死にとは何歳くらいなのか、
いろいろやって、やりきったなと思ったら死んでも良い、
どうしたら満足したといえるのか、
自分が歳をとって家族に迷惑をかけたくない、
など、話はどんどん展開していきました。
古典を素材にして哲学対話をやってみましたが、いろいろと工夫の余地があるので、また試してみたいと思います。
いくつか感想を。
これが古典の授業なのか、と言われると難しいところですが、古典作品を読む動機付けとしては有効かと思いました。
問い出しから対話まで1時間でやったので、実際の対話が短くなり、発言できた生徒が偏ってしまいました。前の時間に問い決めが終わっていると、対話がもっと深まったかもしれません。
まったく個人的な意識なのですが、対話をどう古典とつなげようか、という気持ちが邪魔をして、ファシリテーターとして、対話の中に入っていけませんでした。なんだかふわふわした対話になってしまいました。
対話をし終わった後で、再度原文に戻ってみる、という展開にすれば良かったかもしれません。(対話と原文の内容をふりかえり、記述するなど)
あと思いついたこととしては、生徒の1人に兼好法師の役をやってもらい(教員でもいいけど)、対話の間ずっとその立場から語ってもらうっていうのは面白いんじゃないかなあ。
弁論大会
高校一年生の授業、
三学期は、直接的な表現と間接的な表現について考える、ということを軸に置いています。
「直接的な表現」の練習として、学年全体での弁論大会を企画しました。
これまで、生徒たちは哲学対話を通して、答えのない問いについて考える経験を積んでいます。
友達は必要か、
なぜ勉強しなくてはならないのか、
どんな時でも嘘をついてはいけないのか、
といった問いです。
一方で、振り返ってみたときに、社会的な問い(現実社会で起こっている問題、時事問題など)については、あまり扱ってきていませんでした。
また、そういう問いについて、はっきりと自分の立場を表明するようなアプローチもあまりしてきませんでした。
今回の弁論大会を企画するねらいは、
・社会的な問題に関心を広げる
・自分の立場や意見を、聞き手に直接的に伝える
・そのための論理性や、コミュニケーションスキルを向上させる
というところにあります。
意見を述べるスタイルも、これまでは輪になってコミュニティボールを回しながら対話するスタイルがほとんどでした。
今回は、前に立って聴衆に向かって話しかける練習をしていきます。
まずは、マインドマップを作成し、自分の関心がどのあたりにあるのかを探ります。
そして、Chromebookを使って、現在の状況(事実)、どのような点が問題なのか(問題提供)、それについてどういう立場をとるのか(意見)、といったことをまとめていきます。
まだまだ踏むべきステップはたくさんありますが、少しずつ準備に取り掛かっています。
高校生との哲学対話
昨日は、神奈川で行われた「世界の入り口に立とう とびだせ!高校生2018」というイベントに参加、哲学対話のファシリテーターとしてお手伝いしてきました。
このイベントに関わって3年目になるのですが、毎回多くの刺激をもらっています。
神奈川各地から応募してきた高校生があつまり、ワークショップや研修を通して、交流を深め、視野を広げます。
昨日のイベントは、午前中が日系人のゲストを招いての交流会とワークショップ、
午後が、午前中の経験をもとにした哲学対話、という内容でした。
70人近くの参加者があり、10人程度の小グループに分かれて、問いを出し合い、対話をしていきます。
私のグループからは例えば、
何のために外国語を学ぶのか
なぜ日本人は周りのことを気にするのか
なぜ対象物は同じなのにいろいろな言い方(言語)があるのか
なにがきっかけで、人は相手と打ち解けられるのか
といった問いが出てきました。
みんなで話し合ってこの日のテーマに決めたのは、
なぜ人は恥ずかしいと思うのか
なぜ男女間の距離が国によって違うのか
という問いです。
これも午前中の経験から感じたことがもとになっています。
高校生たちは、自分の小学校の時の体験、留学した時のエピソード、ニュースで見た話などを例に挙げながら、次々話題をつないでいきました。
なにに影響されて、国や地域による違いが生まれるんだろう?
社会が性別の役割を決めているんじゃないか?
など、話はどんどん深まります。
私も、ファシリテーターというより、一参加者として対話を楽しむことができました。
とくに印象に残った発言内容としては、
小学生の時に友達100人できるかな、とか言って友達がいないとおかしいと感じさせるのが良くない。逆にみんな周りの目を気にするようになってしまう。
むしろ1人過ごしても大丈夫になれば、そこから自然なコミュニケーションが始まるのではないか。
恥ずかしさを感じるのは、失敗するのが嫌だから。もっと学校で生徒にいろんな役割を与えて、失敗したり慣れる機会をつくった方がいい。
教師としても、大いに学ぶところがありました。
紙芝居を比較する
中学一年生で古典の単元が始まりました。
テキストは「竹取物語」です。
これまでやってきたやり方は、はじめに歴史的仮名遣いのルールを教え、冒頭文を音読、暗唱できるようにし、その他の場面の読解…
という(オーソドックスな?)展開が中心でした。
今年は、IBの単元づくりを学んだこともあり、何か違った展開ができないかと考え、紙芝居の比較から始めることにしました。
図書館で、二種類の「かぐやひめ」を借りてきて、生徒に読み聞かせをします。
そして、二つを比べて、どういう点が異なるのか、また自分が知っている「かぐやひめ」と異なる内容がないか、まとめます。
とくに、終わり方の違いに注目させました。
今回使った紙芝居は、一つは帝が登場せず、おじいさんとおばあさんがかぐやひめを見送る場面で終わります。かぐやひめも地上の記憶を失くしておらず、何度も何度もふりかえります。
もう一つは、帝は登場するのですが、最後におじいさんとおばあさんが山に行って「ながいきのくすり」を燃やしてしまう、という結末になっていました。
この二つを終わり方を比較して、読んだ印象はどう異なるのか、どちらの終わり方が悲しさを感じるか、などについて話し合いました。
その話し合いを経て、では原作の「竹取物語」ではどういう結末になっているんだろう、ということで、教科書掲載の結末を読みました。
とくに、天の羽衣を着せられたとたんに人の心を失くしてしまう展開に、生徒は驚いて「これが一番悲しい」「設定がえぐい」などとリアクションしていました。
翁と嫗の「血の涙を流して惑へど」といった表現もインパクトがあったようです。
最初に二つの紙芝居を比較させたことで、書き方によって読み手の受け取り方が変わる、ということが意識されたので、
「竹取物語」原作の書かれ方にまで注目できた生徒が多かったように思いました。
結末から授業する、という展開にしてみましたが、古典の導入としてはなかなか楽しめたのではないかと思います。
ラグを導入
3学期のリーディング・ワークショップをスタートさせました。
年始の勉強会でいただいたアドバイスをもとに、あまり効果を急がず、まずは読書を楽しむ習慣づくりに取り組んでいこうと思います。
こちらの気分も落ち着きました。
それからもう一ついただいたアイデアで、
床に座って(なんなら寝転がって)読みたいもいう生徒のための、ラグを導入しました。
IKEAのバーゲンで1500円の品です。
これまでは床で読んでいる生徒を見て、気になるなあ、でもあまり細かいことを言うのもどうかなあ、などと態度を決めかねながらいたのですが、
ラグを導入してから、何のストレスもなく、どうぞどうぞ、って感じです。
不思議なことに、少し仕掛けを変えるだけで言語化できない抵抗感はかなり変わるものですね。
お互いにとって快適な読書の時間となりました。
これからの「国語科」の話をしよう!の感想
連休中は、国語科教員として楽しみにしていたイベントが連続してありました。
13日に行われたワークショップ「これからの「国語科」の話をしよう!」がその一つ目。
実際に参加しての感想を書きたいと思います。
まず、会場に到着して、参加者の人数に驚かされました。
ツイッターなどの事前告知や、仲間同士で話題になっていたので、注目度が高いのは想像できていましたが、予想以上でした。
早めに到着してので、座席は確保できたのですが、あまり人が多い場所は苦手なため、途中で帰ろうかと思ったくらいです。
始まってみると、最初にそんなことを考えてたことを忘れるくらい面白く、参考になる話がたくさん聞けました。
とくに阿部公彦先生の論理のお話は新鮮でした。
今まで授業で論理を扱うというと、どうしても味気ない印象でしかなかったのですが、実際のテキストに即してその「効果」を生徒と分析していく、という展開は、ぜひ自分の授業でも取り入れてみたいと思えました。
気になったことは、議論が窮屈に感じてしまったことです。
ワークショップ自体のテーマでもあるので仕方ないのかもしれませんが、話題が「国語科」という枠の中でばかり語られており、それは国語なのかどうか、という側面ばかりが強調されていたように思えました。
いま私はIBのカリキュラムで教えているので、どうしてもIBのアプローチと比較してしまいます。
例えばIBで「論理」は、どんな教科でも扱うことのできるキーワード(重要概念と呼ばれます)になっています。
そして、「国語(IBの教科名では「言語と文学」)としての論理」「数学としての論理」「理科としての論理」という具合に、それぞれの教科の学習活動を通して、教科ごとに異なるアプローチで「論理」を扱っていきます。
当然、国語としての論理と、数学としての論理、理科としての論理は異なることが想定されています。
生徒の側からすると、複数の教科で異なる「論理」と出会うことで、「論理」を多角的に捉えることができるようになるのです。
ですから、IBの場合は「論理を国語で教えるべきか」といった問いが出てきません。
重要であるとされる概念や考え方は、国語に限らず複数の教科で、また異なる学年で何度も繰り返し扱われるからです。
この知識は社会科で、この考え方は数学で、というふうに、教科ごとに住み分けをして重複しないようにする日本のカリキュラムと大きく異なるところだろうと思います。
(IBではなるべく複数の教科で重なるようなテーマが良いとされています。)
私が議論を窮屈に感じたのも、この辺りが原因なのではないかと思っています。
はじめに「国語科」という枠があり、その枠の中で何をすべきか、また何をすべきでないか、といった話し合いはありました。
しかし、もっと根本的なこととして、これからの学校で、これからの中高生にどのようなことを身につけさせたいのか、卒業する時にどうなっていてほしいのか、そしてそのために「国語科」ではどういう貢献ができるのか、という論点があいまいなまま、話が進められているように感じたのです。
もちろん指導要領では目標が示されていて、そこには汎用性の高い「良い」言葉が並んでいます。しかし、実際にそれぞれの学校で教育目標として用いるためには、学校の状況や目の前の生徒に即して言い直したり、具体化していく必要があるでしょう。
国の教育政策として、もっと全員に論理を学ばせるべきだ、と合意がとれるのであれば、では国語科としてどう論理を扱うことができるのか、という議論になっていくでしょう。
(「論理」のところを「文学」に変えても同じです)
こうした、大きな目標についての議論や合意形成をあいまいにしたままで、現代文か古典か、論理か文学か、といった話をする難しさがあります。
論理国語、古典探究といった科目の設定は、この流れに拍車をかけている気がします。
古田先生のご発言で、
古典、文学、という分け方をしない、こういう問題について考えよう、こういう力をつけよう、そのためにテキストを選ぶ、
というものがありました。
このお考えに同意します。そして古田先生のおっしゃる「こういう問題」「こういう力」とは、例えばどのようなものか。ぜひ伺ってみたいと思いました。
これから中高生とどういう問題について一緒に考えていくか、中高生にどういう力をつけさせたいのか、そして、そのことに国語科としてどう貢献するのか。
このことの大切さを改めて感じたワークショップとなりました。
IBコースの朝礼
毎週火曜日の朝、IBコースの生徒たちは、ホームルームの代わりに体育館に集まって、全体朝礼を行います。
生徒の主体的な活動を推進しているIBコースの朝礼は、リーダー役の生徒が企画・運営・進行を行います。(もちろん、先生はサポートします)
朝礼の目的は、IBについての理解を相互に深めることと、学年をまたいだコミュニケーションを図ることにあります。
そのための企画は多彩で、
・今取り組んでいるプロジェクトの紹介
・実践したボランティアについて発表
・IBの学習者像やATL(学びのスキル)を理解するための劇発表
・コミュニケーションゲーム
など、にぎやかに毎週いろんな活動が行われています。
こういう生徒主体の朝礼は、いろんな学校で行われているのかもしれませんが、
私は「朝礼」というと、しーんとして先生の話を聞く時間というイメージしかなかったので新鮮でした。
教師が上手く促していくことで、生徒中心でいろんなことができる可能性があることを実感しています。