【読書】『ボローニャ紀行』コミュニティのあり方を考えるヒントに
井上ひさしのエッセイはいろいろ読んでいたのですが、『ボローニャ紀行』は紀行文ということで、なんとなく後回しにしていました。
うかつでした。やっぱり面白い!
様々な文献から引用して解説してみたり、創作が挿入されたり、いろいろな趣向を楽しむことができます。
例えば、
セリエAのトッティにまつわる小話を紹介しながら読者を笑わせたと思えば、
その次のページで、第二次大戦中、ボローニャのパルチザン(遊撃兵)や市民が、ナチスドイツに抵抗して大勢殺された歴史について書く。(「二つの塔」)
構成の上手さにどんどん読みたくなります。
とくに面白く読んだのは、作者が市長選の市民集会を見学する場面。
候補者のコッフェラティが現れると、
市民たちが次つぎに、「市長になったらこれはどうするつもりか」「この問題はどう処理するのか」「この難題をどう考えるのか」と質問をつづける。コッフェラティは汗をかきながら必死になって答える。これが一時間もつづきました。強引に喩えれば、コッフェラティが容疑者で、市民が猛者刑事、会場は取り調べ室とでもなるでしょうか。(「市長の作り方」)
驚く作者に、通訳さんが説明します。
市民たちはいま、候補者の質を見きわめようとしているんです。同時に候補者を鍛えてもいるんですね。このような市民集会は、市長選まで何十回となく持たれるでしょう。そのたびに候補者は市長にふさわしくなっていくわけです。(同)
コロナウィルス関連で、政府や都の会見が行われていますが、
原稿を読み上げ続ける会見、生ぬるい質問、かみ合わないやりとり、
連日のようにそういう報道を見ていて、イライラしたり、うんざりしてしまいます。
しかしそれは、ボローニャで行われていたこのような対話の場を作ってこなかった、その帰結なのだろうと思います。
市民がどれくらい芸術や文化を大切にし、また行政や銀行はどのように支援をするか。作者はボローニャの様々な施設に出向き、インタビューを行います。
そこで語られる言葉が、また示唆に富むものばかりです。
「どうしてホームレスの皆さんが芝居なんてものをするんですか」
「仕事がなくなる、住むところもなくなる。すると人間はどうなるだろうか」
「……どうなりますか」
「自分の殻の中に閉じこもるようになる。自分と外部との間に厚いシャッターを下ろす。ところで芝居というものは、みんなが力を合わせることをしないと、できあがらない」
「つまり、芝居の熱が殻やシャッターを溶かす?」
「その通り。みんなでわいわいやっているうちに、心がやわらなくなり、自分と外部との境がなくなる。そして、そこへ観客の笑い声や拍手が加われば、自分と外部とが完全に溶け合って、だれもがもう一度、外部を信じようという気になるんだよ。芝居にはふしぎな力があるんだ」
(「大きな広場」)
「イタリア映画が世界の人たちの生きる糧になっていた時代があった。それが現在はどうだね。人間を殺し、建物を爆破し、しまいには地球さえ壊してしまうような、破戒だけの暴力的なハリウッド映画にすっかり圧されてしまっている。これではいかん。人間そのものを描く映画もなければならん。それをいまの子どもたちにいつか作ってもらいたい。そこで、その準備をしているわけだね。だからチネテカは世界中の映画や映像資料を集めているんだよ、こどもたちの勉強のためにね。日本映画もかつては世界の人たちのこころを揺さぶった。黒澤映画がどれだけイタリア人を、世界の人たちを楽しませてくれたか、どうか想像してほしい。日本の映画人もあの輝きを取り戻してもらいたい。そのためには、根気よく子どもを育てあげることだ」(「チャップリン・プロジェクト」)
わたしたちは自分の街を見て、楽しんでいるんだ。あそこの店にはあれがあり、こちらの店にはこれがあるということを眺めるなんておもしろいじゃないか。それにこうやって歩いていれば、きっと知った人に出会うし、会えば話に花を咲かせて時を忘れる。それがまたうれしいんだ。つまり人生のよろこびとは、こういうささいなことの中にあるんだよ(「日常が大事ということ」)
もちろん、読み手にこれだけ生き生きと伝わってくるのは、作者の言葉の選択、文体が効果をあげていることは言うまでもありません。
こんな風に書いてくと、イタリアはすばらしい!それに比べて日本は…みたいに考えてしまいますが(実際、読みながら度々そう思いました)、
作者は安易にボローニャ礼賛に走ることなく、あとがきの部分で、ボローニャの抱える問題、日本との比較などをして見せています。
この本で紹介されている様々な取り組み、歴史、ボローニャの人々言葉を参考にしながら、
自分たちの生活や、コミュニティのあり方について考え直してみる、というのが良いと思いました。