ひろしまタイムラインが苦手だ
先日から、Twitterで「ひろしまタイムライン」が評判になっていて、知り合いのSNSからもよくシェアされてくる。
ネットニュースなどを読んでいても、良い企画だという声が多いようだが、どうも私は苦手だ。
最初に思ったのは「100日後に死ぬワニ」に似てるな、ということだ。
「ワニ」の方は、自分の運命が決まっている主人公の日常を、読者は神の視点から見ていく、という物語の構造を活かしたものだった。
毎日更新されていくスタイルは、Twitterというメディアともマッチしていて新鮮だった。
安心して楽しめたのは、それが虚構だったからだ。
しかし「ひろしまタイムライン」の方は虚構ではない。
「シュンちゃん」「やすこさん」「一郎さん」という登場人物がいるが、それぞれ「新井俊一郎さん」「今井泰子さん」「大佐古一郎さん」という実在の人物だ。
ご本人の日記をもとに、もし75年前にSNSがあったら?という設定で、ツイートをする。
この企画が始まったときに、HPを見た。
この三名の方が、原爆によって亡くなられたのか、まだご存命なのか、戦争とは関係なくお亡くなりになっているのか、が知りたかったからだ。
でもその情報は載っていなかった。
それをHPに載せることは、(Twitterが一番盛り上がるはずの)8月6日の「ネタバレ」になってしまう、ということだと思う。
私はそのように解釈し、その「見せ方」が嫌だなと思った。
こっちは8月6日に何が起こるのかを知っていて、その人が生き残れるのかどうかを見守り続ける気にはなれなかった。
(ちなみに、8月7日以降もツイートは続いており、3人とも原爆によって亡くなられていはいない)
もう一つ、映画「トゥルーマン・ショー」と同じだ、とも思った。
主人公のトゥルーマンは、保険会社に勤める普通の青年だ。しかし、実は生まれた時から彼の生活は24時間すべてテレビ番組として世界中に配信されている。
彼の住む島はすべて巨大なセットで、街中のいたるところに隠しカメラがある。街の住人はエキストラで、職場の同僚、親友、家族でさえも役者が演じている。
彼一人だけが世界の真実を知らないまま、彼の人生は視聴者の娯楽ためのコンテンツになっている。
今回の企画も、似たような構造に思えた。
(75年前の)本人は、この先何が起こるのかを知らない。
しかし、SNSを見ている私たちは、すべてを知っている。
自分にそのつもりがなかったとしても、誰かのリツイートなどでそれを見るたびに、なかば無理やりに「トゥルーマン・ショー」の視聴者と同じポジションに立たされてしまう。
コメント欄の「生きていて良かったー」などの書き込みを見て、ますますその思いを強くした。
「ひろしまタイムライン」のHPには、ご本人の書いた日記の「原文」も紹介されている。
この「原文」も最初からすべて公開されていたわけではなく、ツイートに合わせて、少しずつ更新されている。(これも「ネタバレ」を防ぐための配慮なのだろうか…)
3人が原爆によって亡くなったわけではないと分かって、ようやく読めるようになったのだが、日記だけ読んでも本当に辛く、重たい内容だ。
たしかに日記を公開するだけでは、ここまで話題にならなかったと思う。
年が経つにつれて、若い世代にどう伝えていくかは大きな問題だ。
しかし、ここまで「劇場型」にする必要はあったのだろうか。
劇場型にしたことによって、コンテンツとして消費される要素が強くなりすぎていないか。
そんなことがひっかかり、もやもやしている。