Senobi

私立の中高一貫校で国語を教えています。国際バカロレア、子どものための哲学、ワークショップ型の授業づくりに関心があります。

実家から両親が赤ちゃんに会いに来た

実家から両親が赤ちゃんに会いに来ました。


本来であれば、生まれた3月には会いに来る予定だったのですが、

緊急事態宣言や移動自粛などがあり、この時期にまで延びてしまっていました。


両親にとっても初孫。

メールで写真や動画などを送っていましたが、

「やっと近くで顔を見ることができた」と、うれしそう。


「30年ぶりだから忘れちゃった」とか言いながら、母が赤ちゃんを抱っこします。

抱っこされている感じがいつもと違う、と分かるのか、すぐに泣き出してしまいました。

ママに代わるとすぐに泣き止んだりして、

「やっぱり分かるんだね〜」なんて言いながらも、ちょっと悔しそう。


父は、落としそうで怖いから見てるだけでいいよ、と触ろうともしません(笑)


自分が赤ちゃんのとき、両親がどのように育児をしていたのか、なども聞くことができました。

なかなか泣き止まなかったそうですが、車に乗せてドライブすると泣き止んだそうで、

私が泣き出すと父は、泣き止むまで車を走らせていたそうです。

チャイルドシートなどなかった時代、停車のはずみで助手席から落ちたこともあるとか…


初めて聞く思い出話もあり、少しの間でしたが、楽しい時間を過ごせました。


地元を離れてずいぶんになりますが、久しぶりに両親と過ごす穏やかな時間になりました。


小論文の型をどう扱うか

DP(ディプロマプログラム)コースの生徒の小論文指導のために、少しだけ授業に顔を出した。
生徒と担当教師は実際に教室にいるが、私だけオンラインで参加、という形。
こういう授業の入り方ができるのは面白い。

DPの最終試験は11月にあるのだが、その前に夏にMOCK Exam(模擬試験)がある。
今はそれに向けた小論文の練習中だ。
DPの試験では、2時間をかけてその場で小論文を書く試験がある。
2000字程度が基本で、3000字弱書く生徒もいる(字数制限はなし)。
そのため、最初の文章構想が大切だ。

生徒たちの様子を見ていると、テクストの細部に注目して分析することや、そのテクストのテーマや目的について自分の意見を考えることはできてきた。
つまり、小論文のパーツをそろえるところまではできるようになってきた。
一方で、それらを秩序立ててまとめること、全体の構成を組むことが苦手なようだ。

それができていないので、時には論じきれないくらいの大きなテーマになってしまっていたり、逆に瑣末なところにずっととどまっていて論が進まない、ということがある。

採点していても、どこが中心となる意見で、どの分析がそれをサポートしているのか、読んでいて、生徒の意図している構成が読み取れない。
IBの示す評価基準には「構成」があり、全体の1/4程度の採点上の大きなウェイトを占める。
このままでは良くない。

先週のうちに、私の作成したサンプルの答案をもとにして、私がどのような構成を意図したかを説明し、一度その型のとおりに(その型に当てはめて)小論文を書いてみるように課題を出した。
今日はその答案を読み合ったのだが、構成のテンプレートがあったために、一気に読みやすい小論文になっていた。
型の力は大きい。

さて、型はとても便利であるが、そのぶん生徒の思考錯誤の機会を奪うことにもつながりかねない。
文章構成を自分で考えなくなってしまう。
最初からこの型に当てはめて書いてみよう、というのは違う気がする。
それまでいろいろ書いてみて、どうもうまく書けない、どうしたらもっと読みやすくなるのか、そのもやもやがあった上で、
他の人の文章の型を真似してみよう、となるのがいいのではないかと思う。

今回、模擬試験も近いので型を教えたが、はたしてこのタイミングが適切であったのか。
このまま、一つの型を使い続けるのではなく、いずれは、自分の論に最適な構成を自分で考えられるようになってほしいが、型からオリジナルへの飛躍はどのようにするのが良いか。
使いやすいからこそ、型の扱いは難しい。

【読書】『なぜ人と人は支え合うのか』「障害」からコミュニケーションのあり方を考える

内容を全然確認しないまま、哲学入門書のようなものを勝手に想像していましたが、違いました。

 障害者とどう関わるか、をテーマにした本です。

著者は、最近映画にもなった「こんな夜更けにバナナかよ」を書いた方。

 

ノンフィクションライターである著者が、障害者や介助者の取材を通して見聞きしたこと、考えたことをまとめています。

また、歴史的に障害者がどのように苦労し、権利を獲得してきたかや、相模原で起こった障害者殺傷事件についてどう考えるか、など、重たい内容が扱われています。

 

だからといって、この本自体が重苦しいわけではありません。

もちろん重大なテーマを扱っているのですが、読み終わると、もっとこのテーマについて深く学んでみたい、と前向きな気持ちになれる本でした。

 

なぜそんな気持ちになれたのか。

ひとつは、筆者の立ち位置です。

もともと筆者は障害者とは何の関わりのないライター生活を送っており、障害者のことを取材するようになったのも偶然です。

ですからこの本では、

障害者と話すとき、変に緊張してしまうけれどそれはなぜだろう?

みたいなところから書き始めています。

そのことで、読者の参加のハードルを下げているように思います。

また、著者はできるだけ中立であろうとします。

障害者を特別視するのでもなく、当然排除するでなく、

また障害者は常に支えられる側ではなく、実は健常者も障害者に支えられていることをふまえながら、支え合いの社会の在り方を模索していきます。

 

もうひとつは、紹介される障害者の方の個性です。

著者が取材した様々な方が取り上げられていますが、その言動やエピソードがとてもユニークで、気づかされることがたくさんありました。

たとえば、ALS(筋肉を動かす神経の障害)のみきおさん。介護者の方と「口文字」を使ってのコミュニケーションの様子が紹介されます。

四肢まひの障害がある天畠さんは、「あかさたな話法」という方法でコミュニケーションをとります。

脳性まひの新田さんは、「足文字」を使います。

このように、障害といっても様々で、できることが異なるわけですから、周りの人とのコミュニケーションの方法も違ってきます。

言われてみると当たり前のことですが、この本を読むまで、こういうことに思いが至っていませんでした。こんな方法があるということも知りませんでした。

 

中でもやはり本のモデルになった鹿野靖明さん、ご本人と、その介助者の方々のやり取りが強烈です。

障害者というと、どうしても社会的弱者のイメージになってしまいます。また、その

弱い存在を介助者が支える、という見方をしがちです。

鹿野さんは、その固定概念を打ち破ります。自己主張が激しく、介助者に遠慮しません。

その結果、ぶつかり合ったりするのですが、その結果、一方的に「支える→支えらえる」の関係性ではない、人と人との対等な関係性が生まれてくるのだと、著者は見ています。

私が思い出したのは、映画「最強のふたり」でした。

最強のふたり (字幕版)

最強のふたり (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 車いす生活を送る大富豪フィリップと、その介護の仕事についたスラム街出身のドリス。ドリスは相手が障害者だからって遠慮しないで、やりたいことをやります。その結果、フィリップも次第に心を開いていく。

立場は逆ですが、特別視しない、というところに共通点を感じました。

 

他にも、

「介助者」と「介護者」、「障がい者」をどう表記するか(このPCでは第一変換は「障碍者」でした)といった言葉の問題、

国内でどのように福祉が成立してきたか、

障害者の「自立」をどう考えるか、など、

様々な観点が新書に盛り込まれています。

障害について、それとコミュニケーションについて考える上で、とても良い一冊だと思います。

 

オンライン勉強会を企画したものの…

週末にオンラインでの勉強会を企画しています。

概念ベースでの授業づくりについて勉強する会です。

 

これまでは、主に私の勤務校を会場にして、隔月で開催していました。

毎回メンバーは異なりますが、10人前後の参加があり、持ち寄った授業案を検討したり、困っていること、疑問に思っていることについて相談したりしています。

 

緊急事態宣言や外出自粛でしばらくお休みをしていたのですが、次は初めてオンラインでやってみようということにしたのです。

 

オンラインということもあり、なんと30名近い先生方から参加希望の連絡をいただきました。

海外のインターナショナルスクールで日本語を教えている先生方など、これまでは距離の問題で参加できていなかった方からも多く申し込みがあり、多彩な顔ぶれの勉強会になりそうです。

 

とてもありがたいのですが、一方で心配も。

 

これまでは、事前にテーマを決めず、集まったメンバーで、話したいことをその場で決めていました。

発表者を厳密に立てて、硬い雰囲気になるのを避けたかったからです。もっと気軽に、ざっくばらんに話し合える会を目指していました。

 

10人程度だとそれが可能なのですが、30人で、しかもオンラインで、となると、なかなか難しいですね。

 

私もいくつかのオンライン勉強会に参加しましたが、

リアルに集まるのと違い、

場の一体感が生まれにくい、

発言のハードルが上がる、

沈黙が気まずい、

などの難しさを感じました。

 

30人もいると、数人の先生だけでずっと話し合って、後は聞くだけで対話に参加できない、という展開になることも容易に想像できます。

 

発表者を立てて、まずは基調プレゼンをしてもらってから、それについて話し合うようにするか、

またさ、複数のミーティングルームを小グループにわけて行うか、

それとも、お互いに次に話す人を指名する哲学対話方式でいくか。

 

どうやったらなるべく多くの参加者の人に満足してもらえるのか、運営方法に迷っています。

 

【読書】『18歳の著作権入門』論文を書く前に生徒と学びたい

先日の筑摩のセールで買ったうちの1冊です。

18歳の著作権入門 (ちくまプリマー新書)

18歳の著作権入門 (ちくまプリマー新書)

 

無自覚だった著作権

著作権について意識するようになったのは割と最近のことです。

 

国際バカロレアの勉強会などで、海外の学校に働く先生と一緒にお話しさせてもらったり、また、自分で本を出すようになったことで、これまでの自分の認識の甘さを思い知らされたことが度々ありました。

 

たとえば、ワークショップなどで、登壇者の人がスライドを使って説明している時、何の断りもないまま、聞いている方がスマホでスライドを撮ったりしていることがあります(私もよくやっていました)。

ある時の会で、隣の先生が、そいうことを平気でやっている人がどうやって子どもに著作権を教えられるのか、というようなことを話していて、私もはっとしました。

登壇者や主催者から事前に許しが出ていないのであれば、撮る前に確認しなければなりません。

その方の学校では、中高生のうちから、著作権について(発表のやり方、聞き方、論文の書き方など)を指導し、作法を身に着けさせるのだそうです。

そういう教育が不足しているのではないか、と話してくれました。

 

生徒と一緒に学びたい

この本では著作権に関して、

そもそも著作物とは何か、

何が認められないのか、

逆に、何は許されるのか、

など、一から丁寧に解説されており、知識を整理するのに役立ちました。

読みながら、いろいろ理解できていなかったところも見つけることができ、勉強になります。

 

探究活動や論文の作成などで、著作権に関する指導をしなければならない機会も多くなってきています。

課題作成にとりかかる前に、生徒と一緒にこの本を読んで、まずは生徒自身に理解してもらうことも大切でしょう。

(そうでないと、コピペレポートの指導など、もぐらたたきで大変なことになります!)

 

例えば、本書では「引用」について、以下の6つの注意点でまとめており、これさえ気をつけておけば大きく間違えない、としています。

①未発表の著作物は引用できない

②自分の作品との明瞭区別

③自分の作品がメイン(=主従関係)

④自分の作品との関連性

⑤改変は禁止

⑥出典の明記 

これは探究ノートの裏表紙に貼り付けておきたいまとめですね。

あとは、それぞれの解説と、やり方(区別の仕方、出典の書き方など)を教え、自分で判断できるようになってほしいところです。

 

教室での上映会はできるのか

意外だったことは、著作権者の許可がいらない制限規定の箇所です。

著作権法によれば、

①「非営利目的であること」

②「観客などから料金を受け取らないこと」

③「実演家・口述者に報酬を支払わないこと」

 この3つの条件を満たしていれば、上映会などができるそうです。

 以上の条件を充たせば、権利者の意向にかかわらず上演・演奏ができます。対象は脚本や音楽だけでなく、既存の振付なども使えます。購入したDVDでも、無料の市民上映会などは基本的にできます。

 この例外は、意外なほど知られていません。知らないため、権利者に断られて泣く泣くイベントをあきらめたり、あるいは広報をしないでこっそり上演・上映するケースもあるようです。

と述べられています。

私も分かっていませんでした。

授業内で、教育目的で使用するのはOKだということは分かっていたのですが、放課後に生徒を集めて映画の上映会をする、などの活動もやってよいことになります。

 

まぁ、今までまったくやっていなかったかと言われれば、そうでもないのですが…

これまでは、何とか授業と関連付けて、理由をつけて見せていましたが、内心は大丈夫かなぁと気になっていました。その心配はいらなかったのですね。

 

DVDの最初の注意書きには、家庭以外での上映は法律で禁止されています、などと表示されます。

販売元としては、あまり大っぴらに上映会をされても困るので、そう書かざるを得ないということなのでしょうか。このあたりはまだよく分かりません。

(ただ、最初に生徒に著作権の説明をしないで上映会をしたら、この先生は法律を破っているのではないかと誤解される恐れがあります)

 

また、TSUTAYAなどで借りたDVDだとどうなのか、という問題もあります。

この本には借りたDVDのケースは書かれていなかったのですが、ウェブでいくつか見た限りでは、意見が分かれていますね。

これも制限規定により、個人が罰せられることはない、という意見がある一方で、

「頒布権(著作権とは別)」の侵害にあたる可能性があるので、貸出元に確認した方がいいという記事もありました(貸出元が許可するとは思えないですね)。

こちらもいま一つ判然としません。

 

 

教育にICTが用いられることで、教科書や学校で購入している副教材以外の著作物を使う機会がどんどん増えてきています。

また、グレーゾーンのケースも今後どんどん出てくるでしょう(オンライン授業での教材の配信はどこまで可能なのか、など)。

まずは入門書で基礎をかためつつ、悩ましい問題はその都度生徒と一緒に考えられるようになっていきたいと思いました。

今週の名文(7)

ラップは「日常の描写」なので、怒りや不満などの気持ちを表現しやすい。格差が拡大する中で生きている世界の若者たちが、ヒップホップに魅せられるのは当然です。ガザやマニラの若者もラップをするように、日本でも盛り上がっています。かなしいかな、格差が広がり、いよきのヒップホップが似合う国になったということでしょう。


◯音楽ライター荏開津広6月14日朝日新聞より)

日本語ラップの歌詞は前から授業で使いたいなと思っていた。

ちょうど卒業論文日本語ラップをテーマにした生徒がいて、いろいろ話しているとやはり面白い。

時代によるモチーフの変遷とか、どのように社会を反映しているかなど。

そこ生徒の分析では、とくに日本語ラップの場合は、本場アメリカなどのように攻撃的な社会批判を含んでいない、という内容だったが、最近ではそれも変わってきたのかもしれない。



私が「考える」ことを通して手に入れる自由を強調するのは、現実の生活の中では、そうした自由がほとんど許容されていないからであり、しかもそれは、まさに考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中といたるところに働いているからである。だから、自由になるためには「考えること」としての哲学が必要なのである。


◯梶谷真司『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬社新書)前書きより。

教師は「よく考えろ!」というくせに、考え方ることそのものを学校で教えない。むしろ考える機会を奪っている、という問題意識に強く共感する。

考えることが自由になるために重要なのだとしたら、学校はなんて不自由な空間なのか。

だからこそ、哲学対話などの風穴を開ける活動の意味がある。


どの本を処分してどの本を残すか…

Kindleを使い始めたのをきっかけに、家の本の整理を始めました。
これまでは、引っ越しのたびに大変な思いをしてきたのですが、これから子ども関係のものも増えてきますし、
そろそろ自分のものを減らしていく時期なのかなあと思います。

どこかの評論文で読みましたが、これからは情報としての本と、モノとしての本に分けて考えていく必要がありそうですね。
そういう観点で自分の本棚を見返してみると、家に置いておかなくてもいいかなという本はたくさんありました。

とくに珍しい本を集めているわけでもなし、昔買ってすっかり古くなった本や、どんどん増える新書などは、思いきって減らそうかと思い、区別していきました。

逆にモノとして置いておきたいのは、愛着のある本はもちろんとして、仕事でしょっちゅう参照する本、画集や芸術関係の本、書道関係の本、など。

作業をはじめて最初の方は、懐かしいなぁ、とか、この本買ったけど結局ほとんど読んでなくてもったいないなぁ、そのうち読むかも、なんて考えながら進めていくのでほとんど捨てる本が決まらなないのですが、
一度スイッチが入ると、
もう手元にあっても読まないだろう、ほんとに読みたければまた買えばいいし、この際一気に処分しよう、みたいな気分になってきて、だんだん気分が高揚してくるから不思議です。
集中して一気に作業を進めることができました。

これから本を買うときは、モノとして買いたいのか、情報だけで良いのか、という選択も入ってくるんですね。
今後、読書の楽しみと蔵書の楽しみのバランスはどう変わっていくのでしょうか。