Senobi

私立の中高一貫校で国語を教えています。国際バカロレア、子どものための哲学、ワークショップ型の授業づくりに関心があります。

『理解をもたらすカリキュラム設計』とIBの単元づくりを比較する(3)

「重大な観念」は「裸の王様」?

「逆向き設計」では、最初に「重大な観念」を明確にし、それを単元設計の中心に据えることが重要だ、ということでした。

ただし、「重大な観念」はそれがどれだけ大切なものであったとしても、抽象的であったり高度だったりするため、生徒にとって面白いものではありません。

重大な観念を直接的に「教えよう」としても、なかなかその意図は伝わらず、また教師の一人よがりなものになってしまう。本書ではそのことが『裸の王様』の比喩で説明されています。

学校における「見事な」諸観念は、しばしば王様の「新しい服」のようなものである。教師や教科書の執筆者や熟達した研究者がその創造物に感嘆や賞賛の声をあげていても、学習者には単に見えないのである。(p.90)

教師にとってどれだけ大切な「観念」であっても、生徒にとってはそれは「見えない服」と同じだ、というのです。

 

ではどうすれば良いのか。本書ではこう続きます。

 

理解のために設計し計画する指導する上では、皮肉にも、重大な観念とその価値が全然明白ではなくなるように、もう一度子どものように見ることに挑戦しなくてはならないのである。(p.90)

教える側はすでにある観念を「大切だ」と理解しているために、それが大切だと分からない人、なぜそれが大切なのかを理解できない人の気持ちになることは難しい。

だから、意識的に、子ども(まだ「大切だ」を分かっていない人)の気持ちになって単元を設計しなくてはならない。

 

…これは大変だ。

知識ベースで授業をしているときに、ここは間違えやすいな、ここは覚えるの大変だろうな、と生徒のリアクションを想像して考えることは良くありますが、

それを概念的な理解においても実行する。

一方的な観念の押しつけにならないように、生徒が何をどう理解し、どう誤解しうるか、授業設計の段階の想像力は、まだまだ練習を積まねばならないようです。

 

「概念」をどう扱うのが有効か

さて、このあたりの記述を読んでいて、IBでのやり方との違いがまた一つ気になってきています。

IBでは授業をする際、単元計画書(ユニットプランナー)を作ります。

ユニットプランナーには、「重要概念」「関連概念」といった、概念的なキーワードを明記しますし、「探究テーマ」(その単元で生徒が理解すること、概念的な短い文)を掲げます。

そして、そのユニットプランナーを単元が始まる前に生徒と共有し、教師は、生徒に学習中つねに概念や探究テーマを意識させることが求められています。

 

ワークショップでもそのように学びました。また、そうすることで生徒の概念理解が促される、とも言われました。

教室に、概念や探究テーマを掲示することが推奨されてもいます。

 

そういうものかなぁ、と思っていたのですが、

『理解をもたらす―』の方では必ずしもそうではないのですね。

概念や探究テーマ(「重大な観念」にあたる)を直接的に生徒に示すやり方は、ここで否定されていたように、王様の「新しい服」を見せていることと同じにはならないでしょうか。

重大な観念は、抽象概念である。設計する上での挑戦は、それらの抽象概念を生き返らせ、きわめて重要だということが見えるようにすることなのである。したがって、私たちが重大な観念を中心に設計しなくてはならいと言ったことは、最初に思っていたよりもずっと困難なことである。生徒が誤解しそうなことについて注意深く留意することは、設計プロセスにおいてより中心に位置づくようになる。なぜなら、重大な観念は単に言って聞かせたり読んだりするだけでは把握されえないものであり、最初に出合ったときには誤解されがちなものだからである。(p.90)

 このように、概念を単元の中で「生き返らせ」ることが求められています。

概念を生徒に提示したり、常に見えるところに掲げておくだけではいけない、それをどう単元のなかに工夫して位置づけていくか。

 

 

概念を単元設計に活かすためには、「問い」が大切になってきます。

次回は、その問いについて書いてみようと思います。